日本食品化工(株)の工場が平成6 年(1994年)に閉鎖した後、平成8 年(1996年)に半田市が敷地と建物を買取りました。老朽化した赤レンガ建物については、平成13 年(2001年)度に一部補修工事が行われました。安全管理上、通常は非公開でしたが、平成14 年(2002年)度より年に数回建物内部の一般公開が行われていました。
平成26年(2014年)6月から平成27年(2015年)6月には、将来に亘り安心安全な建物として利用できるよう耐震性能を確保することを目的に、明治以来、激しい戦渦を乗り越えてきた歴史的建造物の保存・修復工事が実施されました。外観および内部の意匠を残すため、耐震補強には鉄筋挿入工法(レンガ壁内に上から鉄筋を挿入し、グラウトを注入することで補強)が採用されています。
関連文献
(1) 旧カブトビール工場調査所見書
平成9年2月16日
愛知工業大学教授 飯田喜四郎
名城大学教授 伊藤三千雄
◆はじめに
この調査は愛知県半田市榎下町に遺る歴史的建造物・旧カブトビール工場の遺構を保存再利用するための基礎資料作成を目的として実施したものである。
遺構の破損状態や構造強度に関する調査は別途実施されるため、この調査では建物の歴史的価値を明らかにすることが主題となる。したがって、本稿では創立沿革、遺構の現祝、文化財としての価値についての調査所見をまとめた。
現地調査にあたっては、半田市役所企画調整課のかたがた、愛知県立半田工業高等学校の竹内尊司講師など多くの皆さんの協力を得た。この報告をまとめるにあたっては『半田市誌編さん委員会編・新修半田市誌・平成元年(1989年)』、『竹内尊司・旧カブトビール工場の遺構に関する研究・平成7年(1995年)2月(名城大学大学院修士論文)』『丸三麦酒株式会社醸造工場新築工事関係資料(工事概要、平面図、竣工写真)・清水建設株式会社蔵』によるところが多い。
◆創立沿革
この工場施設の中枢部は、丸三麦酒株式会社の醸造所として建設され、明治31年(1897年)10月に竣工したものである。
わが国におけるビール製造は明治2年(1869年)に横浜の外国人居留地で開業したスプリングヴァレー・ブルワリー(のちにキリンビール)、明治9年(1876年)に札幌で開業した北海道開拓使麦酒製造所(のちにサッポロビール)などから始まった。明治10年代になると消費量も多くなって各地で製造が試みられ、明治20年(1887)には東京の日本麦酒醸造会社(のちにエビスビール)、明治22年(1889年)には大阪麦酒会社(のちのアサヒビール)が操業を開始している。
知多方面では、いずれも試醸の域を出なかったといわれるが、明治17~18年頃(1884~1885年頃)に小鈴谷の盛田久左衛門による「三ツ星麦酒」、三河鷲塚の「鷲麦酒」、半田の竹本久三郎による「半田麦酒」が製造を始めたと伝えられている。
中埜又左衛門がビール製造に着手したのは明治20年(1887年)で、まず甥の盛田善平を東京へ派遣してビール工場を視察させている。つづいて英国のビール醸造免許をもつという神戸在住の中国人・韓金海を雇入れ、半田堀崎に醸造所を新設した。明治22年(1889年)5月には「丸三ビール」と名づけた瓶詰ビール3000本を中埜酢店の販路を用いて初出荷し、東京には特約店を設けて販路を広げた。また明治28年(1895年)に京都で開催された博覧会では、関西を基盤とする大阪麦酒(アサヒビール)に対抗してビヤホールを開設している。
明治29年(1896年)5月には株式会社とする発起人会を開き、同年9月に農商務省より丸三麦酒株式会社設立の免許を得た。明治30年(1897年)1月の「第1期事業報告書」によれば、当初の資本金は60万円(株式1万2千株)で、株主は691名、筆頭株主は中埜ナミ(中埜又左衛門の未亡人で、持株772株)、取締役社長には中埜半左衛門が就任した。
明治30年(1897年)9月には、この半田榎下8番地で大規模な醸造工場の建設が始まる。設計は工学士妻木頼黄、醸造機器はドイツ・ケムニッツ市のゲルマニア社から購入、明治31年(1898年)には機械技師A.F.フオーゲル、醸造技師J.ボンゴルも着任し、同年10月30日に工事を竣工させている。醸造も順調で、製品は「加武登麦酒」の銘柄で市販された。
明治36年(1903年)1月の「第10期事業報告書」によれば、資本金60万円(1万2千株)、株主総数は618名、この中には「神奈川 ゼームス ジョンストン200株」、「神奈川カール ローデ商会 180株」、「神奈川 フリードリッヒレッツ 85株」など、外国人(系)の株主31名が含まれている。因みにゼームスジョンストン(J.Johnstone)は当時横浜山手133番地居住:日本郵船会社雇。カールローデ商会(Carl Rhode&Co,)は明治初期から横浜居留地12番地にあったドイツ系の火災保険会社、海上保険会社の代理店であるが、明治30年頃(1897年)には神戸にも商館を置いて機機類の輸入も手がけていた。フリードリッヒ レッツ(Fr.Retz&Co,)は当時横浜214番地と神戸82番地に商館を置き、機繊類、時計の輸入、雑貨、絹の輸出を扱っていた(『The Directory of Yokohama and Kobe.1897』などによる)。こうした在日外国人(商社)からの投資は、この醸造工場の設備機器や建設資材(鉄骨)がドイツから輸入され、醸造技師もドイツから招聘されたこともあろうが、日本におけるビール産業の将来性が高く評価されていたためであろう。
しかし市場競争は激化し、小資本の企業が淘汰されていった。明治39年(1906年)には日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の三社が合併、資本金560万円の大日本麦酒株式会社を設立して市場の70%余を占めた。スプリングヴァレー・ブルワリーは三菱系になり麒麟麦酒となった。
こうしたなかで、丸三麦酒は明治39年(1906年)10月、根津嘉一郎に買収されて、資本金300万円の日本第一麦酒株式会社となり、東京へ本社を移すが、この半田工場はただちに規模を拡充された。明治40年(1907年)1月の事業報告書によれば、明治39年(1906年)10月に再びゲルマニア社へ醸造機械を発注、同年11月には榎下37番地の田地など、工場に隣接する敷地2反2畝15歩を買入れている。
この増築部分の規模形式は詳らかでないが、明治40年(1907年)7月30日付の事業報告書によれば「半田工場増築工事は曩に根伐に着手し、引続き基礎コンクリート打始め、将に土中工事の竣成を告げんとし、一面、石工、鉄梁工事に者手中なり」。明治41年(1908年)1月29日付の事業報告書では「半田工場増築工事は、曩に基礎コンクリート及び土中工事に着手の処、已に竣成し、目下積上げ煉瓦、木工、鉄梁工事九分の竣工を告げ、嘗て独逸国ゲルマニア機械製造所に注文したる蒸気汽罐並に製氷タンク他数種の機械到着し、全部の据付工事、今将に殆ど終了せんとする所なり」。明治41年(1908年)7月25日付の事業報告書では「半田工場の増築工事は4月を以て竣成を告げ、独逸国ゲルマニア機械製造所より到着したる蒸気機関、製氷タンク、アンモニヤ式冷却機並びに米国製最新式瓶洗器械、キルク打込器械、商標貼付、壜逓送機械外数種の機械は既に据付を終へ、目下火入機械外二種の据付中に属するを以て遠からず全部の完成を見るに至らむ」と記載されている。こうした拡充整備が一段落した明治41年7月には、社名を加富登麦酒株式会社に変更している。
その後、大正時代になっても半田工場の煉瓦造施設の増築は続いたようで、清水建設株式会社の記録によれば「大正7年(1918年)12月竣工:加富登麦酒半田工場:モルト工場新築:煉瓦造:147,730円」、「大正10年(1921年)1月:加富登麦酒半田工場:モルト工場増築:煉瓦造:99,951円」とある。これらの建物は当初の施設の西北側に順次増設されたものであるが、その詳細は今後の調査に譲りたい。
加富登麦酒株式会社は、大正11年(1922年)には「三ツ矢サイダー」の発売元・帝国鉱泉株式会社と日本製壜株式会社を合併して日本麦酒鉱泉株式会社と改称した。川口と西宮にも工場を新設しているが、昭和8年(1933年)7月には前記の大日本麦酒株式会社に合併され、企業整備のため、昭和16年(1941年)12月に、この半田の醸造工場は閉鎖された。
こうして明治31年(1898年)から昭和16年(1941年)まで、40余年に及んだ麦酒製造工場としての歴史は終わったが、昭和19年(1944年)には中島飛行機製作所の倉庫となり、昭和23年(1948年)からは日本食品化工株式会社が、ここで操業を開始した。日本食品化工株式会社は鉄筋コンクリート造や鉄骨造の工場施設を順次増築し、コーンオイルやコーンスターチなどの製造を続けていた。わが国におけるコーンスターチの本格的な製造はこの工場で始まったと言われている。しかし、同社は平成6年(1994年)9月には岡山県水島の新設工場へ業務を移して、この半田工場を閉鎖し、旧中枢部の煉瓦造遺構を残して、その他の施設を全て撤去した。
◆遺構の概要
ビール工場は、ビール麦の浸漬、醸造、醗酵、貯蔵、壜(樽)詰、そして管理部門などで構成されている。この工場の創建当時の規模形式については、建設工事を担当した清水建設株式会社(当時:清水組)や半田市立博物館に関係資料が保存されている。それらの資料によれば、東西方向に細長い4階建(西端部は5階建)の棟に「浸漬」「醸造」部門が置かれ、その西端からL字型に煉瓦造2階建の「醗酵」「貯蔵」部門を配し、これに煉瓦造平家建の「瓶詰場」「瓶置場」、木骨煉瓦造の「瓶洗場」「荷造場」を接続させていた。また「浸漬」「醸造」棟の東端には煉瓦造平家建の「汽罐室」を接続させ、その南側に大きな煙突が建っていたことがわかる。なお、別棟で木造2階建下見板張の管理棟が建ち、敷地の南西隅部には木造平家建の外国人技師館があった。そして、明治末期から大正時代には煉瓦造のモルト工場、戦後の日本食品化工(株)時代には多くの鉄筋コンクリー卜造、鉄骨造の施設が増設されていた。
しかし、これら戦後に増設された建物の全てが、先年の工場閉鎖時に解体撤去され、創建当時の施設であった煉瓦造4階建の「浸漬」「醸造」部分や、その東端の煉瓦造平家建の「汽罐室」も取壊されている。なお、木造2階建の管理棟や外人技師館は戦後まもなく取壊されている。
したがって、現存する遺構は、1)煉瓦造5階建の部分、2)煉瓦造2階建の「醗酵」「貯蔵」部分(「樽置場」を含めて、以下「醗酵室」「貯蔵室」棟と呼ぶ)、3)煉瓦造平家建の「瓶詰場」「瓶置場」の部分、4)木骨煉瓦造の「瓶洗場」「荷造場」の部分、そして、5)明治41年(1908年)、大正7年(1918年)及び大正10年(1921年)増設の煉瓦造2階建の部分である。
1)煉瓦造5階建の部分は、東西方向の棟に配置された「浸漬」「醸造」部門と、これにL型に接続する「醗酵」「貯蔵」部門を結ぶ中核的な位置にあり、各階は「階段室」とそれに隣接する小型の部屋からなっている。創建期の平面図(清水建設蔵)によれば、これらの部屋は「事務室」「技師室」などで、工場管理の中心部であったことがわかる。
木製階段や接続する部屋(廊下)境の扉、窓枠などは、かなり損傷を受けているが、当初の形状を保っているものがある。屋根は切妻型で木造洋小屋、両妻壁は煉瓦造、当初は(天然)スレート葺であったと記録されているが(工事概要:清水建設蔵)、現状は小波(セメント)スレー卜葺である。
2)煉瓦造2階建の「醗酵室」「貯蔵室」棟は、厚い煉瓦造の間仕切壁で奥行の深い穴蔵状の部屋に分割されている。1階の床面はモルタル塗り仕上げであるが、2階の床と天井は狭い間隔でⅠ型断面の鉄梁を架け、その梁間を煉瓦アーチで埋めた耐火床とし、上面はモルタルを塗って平滑に仕上げている。
厚い煉瓦壁の中に幅約10センチの空隙がみられる個所がある。この空隙は創建当時の工事概要(清水建設蔵)に「貯蔵窖醗酵室煉瓦壁中ニ湿気止穴或ハ空気抜穴明テ水吐土管積込」とあり、防湿、断熱のための空気層と考えられる。なお天井裏に鋸屑(おがくず)が置かれ、壁面にコルクが付着している部分もあり、これらも断熱性強化のためと思われる。また、創建期の平面図(清水建設蔵)には、「醗酵室」「貯蔵室」棟の東南隅に2階と連絡するリフトとみられる記載があるが、その痕跡もとどめている。
「醗酵室」「貯蔵室」の出入口は、幅、高さ共に拡張され、フオークリフトが通行できるように改修されている。上部に浅いアーチを架けた出入口が廊下と階段室境にあり、当初の形状はこれに類似したものであったと思われる。なお、竣工当時は二重扉になっていたようである(工事概要:清水建設蔵)。屋根は切妻造で木造洋小屋、現状は大波スレート葺である。
3)煉瓦造平家建の「瓶詰場」「瓶置場」部分は、「醗酵室」「貯蔵室」棟の南側に隣接する。その天井は前記の耐火床と同じ構造であるが、南北方向の梁間が大きいため、中間に鋳鉄製の列柱を建てて2梁間にしている。この部分は西壁を壊して部屋を拡げたり、間仕切壁を一部除去しているが、当初の間取りを示す痕跡を残している。
4)木骨煉瓦造の部分は、煉瓦造平屋建の「瓶置場」「瓶詰場」部分の東面と南面に、L字型に設けられている。当初は東面に「瓶洗場」、南面に「荷造場」を配し、東南隅に「事務室」を置いていたようである(工事概要:清水建設蔵)。
この部分には緩勾配の鉄板瓦棒茸片流れ屋根をかけている。この屋根は前項3)の「瓶置場」「瓶詰場」部分の上に延びているが、木骨煉瓦造部分は化粧屋根裏になっている。
出入口や窓廻りは改修されている箇所が多いが、旧状を伝える痕跡をとどめ、一部に創建当時の建具も残っている。また、この部分の東面と南面には、荷物の積み降し用のデッキが設けられていたが(古写真による)、その痕跡もとどめている。
5)明治41年(1908年)、大正7年(1918年)及び大正10年(1921年)増設部分は当初の施設の西部と北部に接続する煉瓦造2階建の部分である。この増設工事は、まず「醗酵室」「貯蔵室」棟の北側に隣接する部分、次にその西側の部分、そして最後に「醗酵室」「貯蔵室」棟の西側に隣接する部分と順次施工されたと見受けられるが、建設時期については今後の詳細な調査を待たねばならない。なお、この増設に当たり、手荒な方法で旧外壁に大きな開口部を設けて新旧の建物の内部を連絡している。
◆設計者妻木頼黄について
妻木頼黄(安政6年:1859~大正5年:1916)は工部大学校造家学科を中退、渡米して明治17年(1884年)にコーネル大学建築学科を卒業、明治19年(1886年)内閣臨時建築局に入局、同年ドイツヘ出張、シャルロッテンブルク工科大学へ入学、2年後に帰国して大蔵省臨時建築局に勤務、議院建築、港湾施設、煙草・塩専売施設など多くの建物を設計管理している。現存する施設としては、旧横浜正金銀行本店(現・神奈川県立博物館:重文)、横浜埠頭煉瓦倉庫などが代表的な作品である。ビール工場としては、この半田工場に先立って大阪麦酒吹田工場(明治23年:1890)、日本麦酒目黒工場(明治29年:1896年)の設計をてがけているが、いずれも取壊されている。
◆結び:遺構の文化財的な価値
遺構の特色と類例:この建物は煉瓦造の部分と木骨煉瓦造の部分からなるビール工場の遺構である。すでに取壊されている個所もあるが、なお建設当初の形式・技法をよく伝えている。
煉瓦造の建築は大正12年(1923年)の関東大震災を経て、急速に鉄筋コンクリート構造や鉄骨構造の建築と交替しているが、明治時代から大正時代の主要な建築は煉瓦造であった。この建物は軒高が高く(一部5層)、延床面積も大きく、わが国に現存する煉瓦造建築として最大級の規模をもっている。また、大阪麦酒(現・アサヒビール)の吹田工場、日本麦酒(現・恵比寿ビール)の工場がすでに取り壊されているので、初期のビール工場の姿を伝える遺構としても、極めて貴重である。この工場はその一部に、木造軸組の間に煉瓦を積み込んだ構造をとり入れている。このような木骨煉瓦造の建物は、素朴な美しさ、親しみ易さをもっているが、いまでは旧官営模範工場富岡製糸所(明治5年:1872年)などに見られるほか、現存する類例は極めて少ない。
この工場ではⅠ型の鉄梁を架け、その梁間を煉瓦アーチで埋めて、耐火性に優れた床を造っており、鉄梁にはドイツの製鋼所の社名が陽刻されている。こうした耐火床構造は西欧で開発された工法であるが、わが国では日本銀行本店(明治29年:1896年)、旧赤坂離宮(迎賓館:明治42年:1909年)、旧八百津発電所(明治44年:1911年)などに見られるだけで、この類例も極めて少ない。なお貯蔵室の部分の煉瓦壁は、断熱性、防湿性を高めるため二重壁にしているとの伝えがあり、その一部と見受けられる個所が露出している。煉瓦壁の穿孔調査を必要とするため、二重壁の範囲は未確認であるが、こうした類例はまだ報告されていない。
遺構の保存状態と復原のための資料:増築されている部分や先年の工場閉鎖に伴って取壊された部分もあるが、この建物は当初の形式・技法をよく保存しており、取壊された部分も復原できる痕跡を残している。また竣工当時の外観写真、略平面図、工事仕様の概略などを記した資料が清水建設(株)に保存されており、それを参照することができる。用途変更や老朽化によって、窓や出入口扉など、建具類はほぼ全面的に更新されている。しかし、一部に当初の部材と推定されるものが残っており、それを復原の手がかりとすることができる。
遺構の記念性:この地域は、はやくから酒、味噌・醤油、そして酢の生産が盛んで、進取の気質に富んだ人材を多く輩出している。このビール工場は、こうした基盤のなかで、地元資本によって設立されたものである。
大消費地への距離が遠く、消費量の伸びが遅れて営業不振となり、外部の資本が入ったり、企業合同などで吸収合併され、戦時中は軍需工場、戦後はコーンスターチ、コーンオイルなどの製造工場に替わっている。しかし、多くの人達がここで働き、ほぼ1世紀にわたって地域の人々に親しまれてきた工場建築であり、壁面には米軍機の機銃掃射を受けた弾痕も残している。このように地域の近代史を物語る証人となっているが、この大きな赤煉瓦の建物は隣接する住吉神社の樹叢や池水ともよく調和し、美しい固有の景観をつくりだしている。
遺構の保存活用:この工場建築は、建築史上、産業史上の貴重な遺構であると同時に、地域発展の歴史を伝える記念性豊かな建物である。また固有の美しい地域景観を構成する要素にもなっている。
この貴重な遺産が有効適切に活用されて、地域の産業・文化振興の拠点となり、変化に富む豊かな都市景観形成の要素としての役割をにないつつ、大切に保存・継承されることを切望する次第である。なお、再利用に先立って構造を中心としてこの建物を調査し、活用のための構造補強措置や改造の方法等についての基礎的資料を整えておくことが必要である。
(2) 赤レンガ建物探検
愛知県立半田工業高等学校教諭 竹内尊司
◆耐火床とは?
この赤レンガの建物には、耐火床が使用されています。『耐火床ってなんでしょうか?』耐火床とは、簡単に言えば火災に強い床です。煉瓦の建物って、火災に強いと思われがちですが、実は弱いんです。煉瓦自体は強いのですが、一般的に建物になると、壁は煉瓦で作れても、床や屋根は木で作るしかなかったのです。そのことから、床や屋根が燃え落ちるという危険性があったのです。そこでこの赤レンガ建物では、火災に強い床が提案されたのです。(写真を参照)また、ビールを醸造するには、温湿度が一定に保たれなくてはなりません。その点からも必要だったようです。しかし、耐火床を作るには、特別な技術と、莫大なお金が必要となるわけです。当時の半田は、それを可能にする経済力と、人脈を持っていたといえるでしょう。
この耐火床が使用されているのは、ビール工場以外では、赤坂離宮、日本銀行本店、半田市の近郊では八百津の変電所などがあります。この事から考えても、国内で誇れる建物だと思いませんか。
今度は皆さんとともに探検したいです。しかし、建物って言うものは、悪いところを直さないと次から次へと壊されていくんです。今、この赤レンガ建物は、そんなときを迎えているんです。みんなで赤レンガ建物おもしろ探検をするためにも、皆さんのご声援をお願いします。
▲写真:耐火床I鉄鋼の鉄梁を架け、その梁間を煉瓦アーチで埋める構法
◆ハーフティンバーとは?
木造住宅の様式で、柱、梁、斜材など骨組構造材をそのまま外部に出し、その間の壁体を石材、土壁、あるいは煉瓦で充填したものイギリスで盛んに行われた方式、ドイツやフランスにもその例が見らます。
この赤レンガ建物では、木造の軸組み(柱、梁)の間に煉瓦を長手方向が見えるように積み上げた方式です。(下図参照)他の煉瓦建築には、鉄の軸組み(柱、梁)の間に煉瓦を積み上げたハーフティンバーもあります。
国内では、官営富岡製糸工場がこの赤レンガと同じハーフティンバー(木骨煉瓦造)の方式を採用しています。