(1)カブトビールの歴史
明治17~18年頃 | 小鈴谷村・盛田久左衛門の「三ツ星麦酒」、三河鷲塚の「鷲ビール」とともに、半田でも竹本久三郎の「半田麦酒」が現れたがいずれも試験醸造の域をでなかった。 |
明治22年(1889) | 5月 中埜酢店4代目・中埜又左衛門と敷島製パン創業者・盛田善平らにより、「丸三ビール」と名づけられた瓶詰めビールが3,000本余り半田から初出荷された。 |
明治28年(1895) | 京都で開かれた第4回勧業博覧会にアサヒビールと対抗してビアホールを出し十数人の芸者に赤前掛・赤襷で宣伝させたところ、その競争ぶりを新聞が書きたてて評判になり醸造能力の3~4倍の注文が殺到する盛況となった。 |
明治29年(1896) | 5月、4代未亡人ナミを中心に発起趣意書を出し、同9月6日創業総会を開き、札幌のサッポロ・東京のエビス・横浜のキリン・大阪のアサヒに対抗して丸三麦酒株式会社が設立された。 |
明治31年(1898) | ドイツから機械技師A.F.フォーゲルと醸造技師ジョセフ・ボンゴルが来着し、10月31日には半田町榎下に新工場が竣工した。同年から本格的ドイツビールの醸造に着手し銘も「加武登麦酒」と改めた。 |
明治33年(1900) | パリ万博で金賞に輝き、全国で飛ぶように売れ始める。 |
明治39年(1906) | 甲州財閥の雄・根津嘉一郎に丸三麦酒株式会社を譲渡し、日本第一麦酒株式会社になる。 |
明治41年(1908) | 日本第一麦酒株式会社より加富登麦酒株式会社に社名変更する。 |
大正10年(1921) | 三ツ矢サイダーで知られた帝国鉱泉株式会社及び同系列の日本製壜株式会社を合併し、日本麦酒鉱泉株式会社と改称した。 |
大正11年(1922) | 新たにユニオンビールを発売 |
昭和8年(1933) | 7月 当時80%近いシェアを占めていた大日本麦酒株式会社と合併する。 |
昭和18年(1943) | 12月 企業整備令の適用により半田工場は閉鎖され、中島飛行機製作所の資材倉庫となり、40余年に及んだ麦酒製造工場としての歴史に幕を下ろす。 |
(2)カブトビールの起業家精神
【カブトビールのルーツ】
・明治20年丸三麦酒醸造所設立(ミツカン4代目中埜又左衛門、半田町堀崎)
・明治22年5月、「丸三ビール」として、3,000本初出荷
・ユニークな宣伝で、先行していた4大ビールメーカーを追撃(キリン、サッポロ、エビス、アサヒ)
・明治28年の第4回内国勧業博覧会(京都)で、芸者に赤襷・赤前掛けでお客をもてなしたところ、大きな話題となった。そして、注文が殺到・・・・・。
・明治29年地元の有力な醸造家を中心に丸三麦酒株式会社設立。
・明治31年10月、半田赤レンガ建物竣工
本物を目指した | ①建物 | 基本設計:ドイツ・ゲルマニア社 実施設計:妻木頼黄(明治三大巨匠) |
②設備 | ドイツ・ゲルマニア社 | |
③技術者 | ドイツから2名雇用 | |
本格ドイツビールの製造を目指した。 |
・明治32年、「カブトビール」の名前で新発売
※由来 | ①勝って兜の緒を締めよ(日清戦争後) ②日本酒を喉で景気よく飲むことを「かぶる」と言った。 |
・明治33(1900)年、パリ万博で金牌受賞。
巴里万国大博覧会出品願 と 解説書 (愛知県立公文書館所蔵)
証状 (鈴渓資料館蔵盛田家文書)